2015年9月17日木曜日

今週のこと

そもそも何かを主張する人間(デモのことです)に対してその問題の当事者としてまともに反論できないような傍観者が、圧倒的に優位な立場から蔑んだり嘲笑したりすること自体に違和感を覚えるんだけどインターネットの空間はそういう人間のネガティブな側面や汚らしさみたいな部分を吐き出す場として成立しているようなので仕方がないのかもしれないなとは思う反面、最近は見るのが少ししんどくなってきた。政治的な問題や時事問題となるとなおさらで、的外れなのではないかと思う意見を読んでいると「俺も何か主張するべきなんじゃないか」と思ったりもするし、こういうのは自分の言葉で語れるようにならなくちゃとか真面目に考えたりもするし、そういうのが大事だと理解してはいるのだけど、何となく時間を無駄にしているような気がして思考を止めてしまう点けっぱなしのテレビから流れてくるニュースが自分の生活にどう関わってくるのか、頭のなかでぼんやりとは理解していても、結局は電車の窓から見る風景がものすごいスピードで流れていくみたいに、ひとつひとつ丁寧に吟味する暇もなく、気が付けば自分の前を通り過ぎている。

 国会前で大規模なデモがあった月曜日の夜は大学の研究室で修論を書きながら、来月バイトのシフト入れる日が少ないけど店長にどう言い訳しようとか、先週末に面接を受けた会社から全然連絡がこないけど落ちたのかなとか、昨日一緒に飲んだ女の子は俺のことどう思ってるんだろうとか、ヨドバシでフィルム買い足さなきゃだけどそろそろ金が足りさないかもとか、そういうしょうもない自分の生活のことを考えていた。社会の大きな出来事と生活の些細な場面のミスマッチみたいなところを岡田利規が『三月の5日間』で書いていた気がするけど(こういうときに自分がちょっと読みかじった程度の作品をわざわざ書くのはマジで恥ずかしいけどもし読んでいる人がいたら伝わりやすいかもと思って書いた)、俺はこういうシーンでも自分の修論やバイトや就職活動や恋愛やお金のことしか考えられない人間なのだと思った。端的に言ってしまえば想像力に欠けているのだと思う。電車の窓から遠くで行われているデモの風景を眺めているような。そのうち窓の外を眺めるのに飽きて、さっきまで読んでいた本の続きのページをぱらぱらと捲っているような。そういう風に世の中と付き合っていけば、義憤に駆られたり、大きく挫折したり苦悩したりすることも無いと何となくわかってきた。自分の人生の表層の薄っぺらいストーリーをただ進めていけばいいだけだから。でも今はその表層のストーリーをうまく進められていないから、思考がどんどん内側に籠ってしまうのだと思う。

 自分の生活を投げうってまで主張したいことは、24年間生きてきてひとつも見つからなかった。生活はリアルだしめちゃめちゃ強い。生活の強さに押しつぶされて考えるのを完全に止めてしまうのは怖いことだけど、理想論ばかりを訴えられると現実の生活をなめるなよ、と思ったりもする。

曲がりなりにも一応は美術を勉強している学生という立場なので、社会と生活と表現の接点みたいなところにも関心はあるし、それらは思った以上に密接に関わっているものだとも知ってはいるけれど、アーティストでも政治家でもない自分がそれをどう繫げて考えていけばいいのか今はあまりわからない。ただ、自分のことに関して言えば、何かを訴えるものだけが表現ではなくて、YesNoの間の揺らぎや葛藤みたいなところを掬い上げるのも表現だということを最近よく考える。その表現は傍観者の視点ではなくて、YesNo渦中にある当事者の揺らぎでなくてはだめだとも思う。

抽象的でふわふわとしていて、何か言っているようでまるで何も言ってない文章になってしまった。結局こういう文章しか書けないのだ。理想とするものがないから、生活のリアリティに負け続けている。それは仕方のないことのような気がするし、何かもっと外の世界へ開いていけるようなポイントがどこかにあるような気もする。

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