2015年8月7日金曜日

〈もの〉と詩情 ―〈事物〉展をめぐって


〈もの〉と詩情 ―〈事物〉展をめぐって
山本 大樹
 20155月から、東京国立近代美術館において企画展〈事物-1970年代の日本の写真と美術を考えるキーワード〉が開催されている。「主体としての「人間」と、客体としての「世界」という関係の構図を、根本的に考え直す[1]」という信念のもと活動した「もの派」のアーティストの作品や、「事物」と写真との連関を追求した中平卓馬、大辻清司、ウジューヌ・アジェといった写真家の作品を中心に取りあげた展覧会である。
 〈事物〉展に展示された作品の多くには、アーティストの高い技術に裏打ちされた計り知れないほど豊かな背景の広がりがある。そして多くの作品の根底にはある種の叙情性が感じられた。いま改めて「事物」について考えるとき、私はその叙情性に着目して出発したい。

ウジューヌ・アジェ《廃品回収業者たちの小屋》
 〈事物〉展のなかでも印象的だったのはウジューヌ・アジェ《廃品回収業者たちの小屋》である。継ぎ接ぎだらけのバラック小屋は今にも崩れそうなほど弱々しく、外壁には植物の蔓が這っている。アジェがパリの街の細部を切り取った写真群からは、〈事物〉と正面から向き合っているが故に空間の広がりがあり、それと共にイメージを失った建物の空虚さを感じとることができる。シャッターを切る前の、膨大に積み重ねられた時間、あるいはシャッターを切った後に延々と流れていく時間が、アジェの1枚の写真からは排除されてしまっているかのように見えるのだ。それは決して「街並が変化する」、あるいは「小屋が老朽化する」といった短絡的な時間の広がりのことではない。バラック小屋はどこからどう見てもバラック小屋以外の何物でも無いのだが、極めてシンプルに、かつ正確に写し取られているが故に、〈もの〉の確かな肌触りを感じ取ることができる。そしてアジェの写真に触れたとき、既に「街」や「小屋」へのイメージは失われているのだ。李禹煥は評論『出会いを求めて』のなかで、「木や石は木や石であると同時に木や石ではない。つまり木や石といえどもそれは規定性を越えた天空にも等しい計り知れない宇宙である」[2]という荘子の見方を引用した。凝固化された理念や観念を捨て去ってはじめて「もの」そのものを見ることができる、という李の主張は、アジェの写真の中に見える空間的な広がりを裏付けるものであると言えるだろう。画面の隅々までピントが合っているからこそ、バラック小屋の空虚さははっきりとした意思を持ってこちらを見つめ返してくる。パリの日常的な風景を自堕落に肯定するのでは無く、イメージに塗れた日常の空虚さと正面から向き合ったが故の、日常性と表裏一体の空虚であり、それゆえアジェの写真は詩情を帯びているのだ。
 中平卓馬は『個の解体・個性の超克Ⅱ』の後半で「世界とのせめぎ合い、その対抗性として主体はある。」[3]と語った。〈主体〉を否定するのではなく、あくまで〈主体〉としての写真家の在り方を提唱した中平は、写真家の観念にまみれた「リアリズム」を否定しながら以下のように続けている。

 写真は「作者」たる写真家の思惑などはるかに超えて一人歩きを始めるのだ。それは逆に考えると、すばらしく開かれたメディアであるということになりはしないだろうか。(中略)写真はただの媒介である。そのことに徹することによって、われわれは写真をもう一度新たに有効なメディアとして捉え返すことができるのではないか。[4]

 中平の言うところの写真家=〈工作者〉もしくは〈演出家〉が「媒介であることに徹する」というのは写真にとって大きな課題であると言える。前述のアジェの写真のような、優れた「演出」は極めて高い技術によって事物を正確に写し取ることで成立していると言えるだろう。洗練された技術を持った写真家が、〈もの〉との無媒介的な関わりを築くことは一見、困難であるようにも思える。ものと写真家の間にはカメラがあり、意識せずともそれを自由に使いこなすだけの優れた視覚や反射神経、空間認識や画面構成の能力がある。中平が「表現しようとする意思の欠落」を指摘した幼少のラルティーグの写真さえも、意識せずともその豊かな一瞬を切り取ることに成功しているとしたら、事物との無媒介的な関わりは果たして可能なのだろうか。
中平卓馬〈サーキュレーション〉より。
 中平がパリで撮影したカリフラワーの写真は、それがカリフラワーであるということ以外に何も語りかけてこない。カリフラワーの写真を見たとき、私は現実のカリフラワーを見かけたときと同じようにそれがカリフラワーであると認識し、そこから味や形状、店頭に置かれるまでの背景を想像するが、その想像は中平の理念や観念によるものではない。カリフラワーの写真がまるで鏡のように「カリフラワーである」という私の認識だけをそのまま突き返してくるためである。
 中平は『なぜ、植物図鑑か』の文中において「〈詩〉が欠落する」という表現を用いている。しかし見る者が写真を通じて〈事物〉そのものと出会ったとき、再び〈詩〉は浮上してくるのではないか。撮影者はシャッターを切った時点で役目を終え、その後の写真に浮上する〈詩〉は作者の理念や観念によるものではなく、見る者の写し鏡のようなものである。その鏡は、歪むことも屈折することもなく、真っすぐにこちらを見返してくる鏡である。高い技術によって写し取られた一枚の鏡のような写真の、大胆な想像力の喚起こそが〈事物〉と向き合った中平の写真の持つ詩情であると私は考える。
高松次郎《木の単体》
 〈もの〉の叙情性を分析する上でもう一つの例を挙げたい。高松次郎《木の単体》(1971年)は直方体に切り出された木材の、人工的に開けられた穴のなかに細かな木片を収容した作品である。「木」はそのままに「木」であるのだが、一度解体され、別の性質を持った物体に再生された木材は、見るものが無批判のまま了承している「木」のイメージを批判的に突き返してくる。高松は「木」という物質をそのまま肯定しているのではない。「木」を引用し解体することで、日常のなかにある「イメージ」の手垢に塗れた「木」をそのままに肯定する者に対して強い否定のメッセージを発している。

 通常の感覚で一本の木を、そのままでいろいろな未知性を含んだそれとして見ることは容易ではない。木が木であるという、いわば超越性のために「木」にする行為が必要なのだ。そこらへんのあるがままをアルガママにズラすことが表現行為、作品制作となり、それによってあるがままが反省的に近くされると言うことである。[5]

 李禹煥が『出会いを求めて』のなかで述べているように、高松は「木」を別の形状に造形するのではなく、「木」の姿を「ズラす」ことで「木」を提示しているのだ。それは日常性を否定する動作である。なおかつ高松は「木」を提示する上で高度な造形技術すらも必要とせず、木材を彫って再び戻すという至極単純な動作によって日常の脆さを暴いてしまった。それゆえこの作品からは途方もない恐ろしさを感じるのだ。そして作家自身がシンプルな動作によって日常性を否定する作業は、どこか甘美な喪失感を纏っているようにも見える。
 アジェや高松の作品をはじめ〈事物〉展の多くの作品の根底には、共通してある種の詩情が感じられる。〈主体〉としての作者の存在を否定した李禹煥の評論が詩文化しているのと同じように、理念や観念を取り払う仕草は叙情性を伴うものであると考えられるのではないか。「〈個性〉の代表者として〈大衆〉の上に君臨してきた」[6]芸術家が〈もの〉そのものと向き合い、自らイメージを削ぎ落とす作業は、近代以降の理念や観念の世界で生きてきた人間たちに大きな喪失感を与えるものだと言える。理念や観念を取り払われた〈もの〉は鏡のように、見る者の理念や観念をまっすぐに突き返してくる。そして彼らの作品からは、イメージを喪失した〈もの〉自体の空虚さとともに、表象することを止め、媒介に徹する道を選んだ芸術家の悲壮とも言える覚悟を感じとることができる。それ故に彼らの作品は叙情性を帯びているのだろう。






[1]〈事物-1970年代の日本の写真と美術を考えるキーワード〉展 解説文より。
[2] 李禹煥『出会いを求めて』田畑書店、1971年、56頁。
[3] 中平卓馬「個の解体・個性の超克Ⅱ」『決闘写真論』朝日新聞社、1977年、227頁。
[4] 同書、227頁。
[5] 李禹煥『出会いを求めて』田畑書店、1971年、57頁。
[6] 中平卓馬「個の解体・個性の超克Ⅱ」『決闘写真論』朝日新聞社、1977年、215頁。